神との和解
むかし台湾の有名なお寺で、願い事が叶うかどうか台湾式の占いをさせて貰った事がある。
その結果…
「お前は神を信じてないから無意味」
そんなある意味神からケンカ売られたようなお告げを得た私が生まれて初めて伊勢神宮へお参りに行ってきましたよ〜
信じてないんじゃなくて、願い事が出来ないというのが正しい。
私は神様に願い事をするレベルにはまだ達していないというのを言いたいのだけど、そこんとこイマイチ神にすら理解して貰ったことはない。←だから神様に嫌われるんだ
だから一生行くことはないかもしれないと思っていたお伊勢さんにお参りに行こうと思う日が来るとは思わなかった。
お伊勢さんに行く途中、サリンジャーのフラニーとゾーイーという本の中でフラニーが「絶えず祈れ」という言葉を実践している旅人の話をするところを思い出していた。初めはただ唱えるだけの意識的な祈りがだんだん無意識になりそして「何か」が起こる。どんな宗教にも共通する祈りの最終形でそんな祈りのスタイルに憧れるフラニーの様子がとても好きだ。彼女はクリスチャンなのに「神が誰でどんな姿をしているかなんて私に聞かないで」と言って気を失ってしまう。
神と祈りについてこれほど端的に、かつ彼女が内包する矛盾をうまく表した表現もないと近鉄の電車でなぜがひとりこんな事を思っていた。
このお話のなかの不安定なフラニーと同じで私も自分と神との距離感を図れずにずっとやってきた。それは私にとっても長い巡礼の旅だったのかもしれない。
かと言ってすぐに神様と仲良しになれたかは全然分からないけどな(台湾での恨みは深い)。←とりあえず和解を願え。